KYを許さない日本社会
『KY(空気読めない)』
この言葉が生まれたという背景が、日本の社会の象徴とも言えるのではないだろうか?
【個性を殺し、集団を引き立てることが美徳】
個人的に今の日本には上記の雰囲気が感じられる。
規則を破ると、
空気を乱すと、
個性を出すと、
「KYだな。」
その一言を叩きつけられ、〝異常〟というレッテルを貼られる。
余りにも、息苦しい。
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日本特有の《空気を読む》という感性。
日本人という人種ならではの素晴らしい感性であるのは百も承知だ。
しかし、幾ら何でもすべてに当てはめすぎではないのか?
そこまで個性を出してはいけないのか?
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近年、動機が理解し難い犯行が増えている。
直近で言うと、[AKB48襲撃事件]
容疑者曰く、「誰でも良かった」
何故このような犯行に走るのか?
要因の一つに〝社会の息苦しさ〟があると思う。
個性を殺すということは、自己否定されて一方的に価値観を植え付けられるものだと思う。
その息苦しさに耐えられず、犯罪という愚行に手を染めてしまうのではないか?
規律を守る=個性を潰す なのか?
規律を守るのはもちろん大事だ。
しかし、【規律を守りながら個性を生かす】という選択肢はないのだろうか?
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誤解を恐れずに書くが、義務教育そのものが個性を殺していると思う。
上記は教育に対しての風刺画だ。
これを見て、思わず納得してしまった。
納得させるほど、教育に疑問を感じている。
教育について、知り合いの考えが腑に落ちたので以下引用。
日本の教育システムに関してですけど、問題は確かに多々あるかもしれませんが「めっちゃ優れてますよ」
北欧の教育システムが〜
とか
最近アジア諸国に学力が〜
とか、よく報道されますが、そんなの差し引いても日本の教育水準やシステムは世界最高レベルです。
これは細かな説明を読むよりも、実際海外に行って現地の人と触れ合ってみてください。
日本人、そして日本の教育システムの凄さが分かります。
それじゃあ、そんなに優れてるなら何がダメなのかっていうと
【教育システムをずっと変えない事がダメ】なんです。
今の日本の教育システムは第二次世界大戦後、つまり日本が0の状態に作られたシステムな訳です。
こうなると、国の第一目標が自然と「復興」になります。
こうなりゃ個性とかユニークとか言ってられない。
若い男は戦場で死んでしまったんだ。
それなら
【なるべく質の高い労働者をたくさん育成しなければ】こうなる訳です。
こうして日本の画一的・没個性的な教育が推し進められるわけです。
GHQが〜とかいう意見も多いけど、おそらく本質はそこじゃない。
それは日本の事実がバレると都合の悪い人達が作った【エサ】の可能性の方が高い。
日本の目標は戦後復興
↓
そのための教育
↓
それを変えてない
こんな流れな訳です笑
未だに戦後復興時の教育システムだから、おかしな事態に今の日本がなってるんだよね。
確かに1970年代中頃までは、この教育システムは目覚ましい効果を示してくれて、現に日本を世界2位の経済大国までのし上げてくれた。
それを支えたのは、安価かつ上質な労働者だった。
だけど、今は違うよね。
安価で上質な労働者は、グローバル化してる現代ならフィリピン人やベトナム人。
決して日本人じゃない。
日本人はコスト高すぎ。
話はそれまくったけど、言いたいのは【今の日本に求められてのは、労働者じゃなくてリーダー】
でも
【リーダーを生み出す教育システムに変化していない】ってこと。
予想ですが、日本の教育システムはしばらく変わりません。
まずは出口(経済悪化・就職難・倒産)がダメになってから入口(教育・学校・家庭)が変わるので。
《空気を読む》という数十年前の空気感が、今になって美徳という価値観にまで至ったのだろう。
KYを生まずに良質な労働者を生み出すための教育システム。
それを変えないから、復興を終えた今の日本で違和感として浮かび上がってきている、ということ。
なら、そろそろ個性を発揮する社会へ移行しても良いのではないだろうか?
いい意味で〝KYが育つ社会〟でも良いのではないだろうか?
個性には限りない可能性があるはずだ。
KYな(空気読めない)人が、KYな(空気を揺るがす)人になる時代が訪れることを切に願う。
(無理やりなところはご愛嬌)