海外支援ボランティアは良いものなのか?
初めに断っておくが、自分は海外支援ボランティアに参加したことがないので、外からだけで見て感じた個人的見解である。
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「カンボジアで学校建設しませんか?」
「ラオスで井戸を掘りませんか?」
「ベトナムのスラム街へ寄付金を・・・」
最近これらの海外支援ボランティア団体の話をよく耳にする。
≪果たしてボランティアはいいものなのだろうか?≫
という疑問だ。
ボランティアといえば響きはいいだろう。相手のためを思い手助けのために行動する、立派な行為だ。
本当に相手のためなのだろうか?
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この疑問には2つの意味合いが生じる。以下で説明しよう。
<誰のためにやっているのか>
まず1つめ、履歴書や自己満足のためになってはいないか、ということだ。
学生団体に所属をしている人の中には上記の人は少なからずいると思う。
「ボランティアをした」という大義名分や、それを行ったという自己満足に酔いしれることは、そもそも活動を行う動機として如何なものだろうか?
「それが人のためになるのならいいじゃないか」という声も分かるが、ボランティアという活動に置いては動機は〝相手のため〟というのが1番にくるべきものだと思う。
そもそもそれがボランティアという活動の意義だろう。
動機によって行動と思考は変わる。
行動のどこに力を入れるか、優先順位が変わるものだ。
自己満足や履歴書のためだというのなら、極端に言うと『参加した』だけで満たされる。
それでは活動に力が入らないとしても当然だろう。果たして、そんな気持ちで参加して良いのだろうか?
<相手のためになっていないのかもしれない>
そして2つめは、純粋に、その活動は相手のためになるのか、ということである。
時と場合にもよるが、お金や物をあげることが必ずしもその人達のためになるとは限らない。
何故なら、
過度の援助は『怠慢』を生むからだ
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「自分たちがやらなくても日本の人達がやってくれるから」そう思っている現地の人が、もしかしたら既に生まれてしまっているかもしれない。仮にそのような人を生んでしまったのなら、そのボランティアは現地の人からしたらマイナスだろう。短期的ではなく長期的に見た場合だ。
ボランティアをするのなら徹底的なリサーチが必要だと思う。そしてアフターケアだ。
例を上げると、
「学校を建てました。」
教員の数は足りてる?
通学路は大丈夫?
生徒の文房具やノート、給食や服装は準備してる?
「井戸を掘りました。」
定期的な水質検査は?
その井戸はいつまで使える?
井戸の大きさに対して村人の人数はカバーできる?
「◯◯万寄付しました。」
そのお金はどこの国の人がどうやってどこにいくら使ってる?
などが挙がる。
それ以前に、そもそも学校や井戸を1番欲しているのはその地域なのか?
周りの地域と比較したのか?
手助けをしたい地域が1番欲しているものは何なのかなど、リサーチすべきことはたくさんある。
アフターで関わりすぎるのも疑問だ。
「自分たちの団体は定期的に同じところに人を送っています。」
それこそ怠慢を生むだろう。困った頃に日本人が来るのだから。
もしやるとしたら、どんどん人数や期間などを<減らす>方がいいのではないか?
『相手がいる』のだから。
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学生も社会人もない。
活動する一個人として、真剣に考えて意識すべきことで、代表だけではなく、ボランティアメンバー全員が思考すべきものだ。
生半可な気持ちで干渉するのではなく、しっかりと意識すべきだ。
ではボランティアはよくないのかというと、そうは思わない。
疑問を抱いているのは〝活動者の意識や分析〟に対してで、全員が意識してボランティアをしているのなら、それは素晴らしい活動内容になるはずだろう。
<釣り方を教えるのではなく、ただ魚を与えているだけだ>
1つ例え話をしよう。
あなたは大嵐によってボートが転覆し、無人島に漂着した。
水もない、食料もない、衣服も住居もない島。
しかしただ1人、そこで魚を釣って生活している老人がいた。
老人は言った。
「毎日3匹だけ魚をあげよう。」
あなたは喜び受け入れ、毎日3匹の魚をもらって救援が来るまで生活した。
いつ来るかも分からない救援を待って、、、。
ここで言う老人をボランティアと考えるとしたら、あなたは何を思うだろうか?
「相手が喜んでるからいいじゃないか?」
「相手のために活動してるじゃないか?」
違う、これは長期的に見たら相手のためにはならないのだ。
何故か?
老人が死んだらどうする?
つまり、ボランティアが来なくなったらどうする?
上記の場面で老人がすべき行動は
〝釣り方を教える〟ことだろう。
1度覚えてしまえば、例え老人が死のうが自分で釣れるようになる。
『自立している』からだ。
ボランティアで真にやるべきは
『自立させること』であり、
そのための支援物資や人的資源、金銭的支援であるべきだと思う。
≪自立させる≫つまり≪干渉する必要がなくなる≫ようにするのがボランティアのベストではないのだろうか?
活動の根底にその意識があるかどうか、団体的にも個人的にも考え、真の〝相手のため〟のボランティアでありたいものだ。